ぽとん ぽとん ぽとん
中2階からボールを落とす。
赤、黄色、青、緑。
様々な色のカラーボールが階段を伝わり落ちてくる。
A 君は落ちるということを、試しているようだ。
ボールプールに手を伸ばし、そこに無数に入っているカラーボールをただ投げては、落ちるボールを見つめる。
1つ落ち終われば次のボールに手を伸ばし投げる。
階段の下の私は 中2階の A 君を眺め上げる。
A 君には 私は関係がない。
ボールは落ちる。。。それが全てのようだ。
その当時 A 君は2歳だった。
診断名は 自閉症疑い であった。
セラピストである私は 、A 君がボールを投げる様を十分に見て、 A 君に向かってボールを投げ返した。
ボールを投げ返すとは、階段下に落ちてきたボールを掴んで、階段上の A 君に向かって投げることだ。
A 君は驚いた。
ボールが帰ってきた。
これまで、規則正しく落ちていたボールが。
A君は、その意外性に思わず階段の下を、見た。
そこには、満面の笑みを携えた 私 が居た。
A 君は意識した。
ボールを投げながら、私を見るようになった。
私は期待通りに、ボールを投げ返した。
ボールは、 A 君の元に戻った。
A 君はそのボールを拾い、投げた。
私は拾った。そして投げ返した。
次の回でも同じ遊びが繰り返された。
階段の上からボールを落とす。
そして私が、投げ返す。
意識して、私は A 君の視界に入った。
何度も何度も入った。
ボールは、必ず重力に沿って落ちた。
A 君は、私とボール遊びをするようになった。
次回からA君は、その遊びに、私を誘うようになった。
手を引いて、ここに座れ というわけである。
私は、遊びの一部 になった。
自分で、階段を上るようになったら、マットを積んで山にした。
A 君は夢中になって登った。
登ってはまた降りた。
Aくんは、ボールになったのかな。
自分で自分の発達に必要なものを知っているかのように、全身を使って何度も何度も繰り返した。
お母さんが A 君を 預けに来た。
私は抱きとって、いつものように遊ぼうとした。
すると A 君が泣いた。
お母さんにしがみついて泣いた。
どう見ても、普通の母子分離にしか見えなかった。
言葉が、私の口を突いて出た。
「自閉なんて、本当にあるのかな。」
自閉は元々、統合失調症が生得的に起きる型を想定して、考えられた診断名だった。
https://dibesapo.com/d-authizm1/
自分と世界が、分離をしていない。
我々は、象徴機能と言うものを使い、何かを何かで代表させて言い表すことで、世界を統合している。
これは暖かい これは暑い これはリンゴ これは動く これは閉まる
言葉、は象徴機能の最たるもので、そのもの自身でなく言語化することで、
割り切って簡素化して理解している。
生のままの感覚が、入り続けていたらたまったものではない。
言葉にすることで、この世を系統だてて理解することが出来るようになる。
言葉は緩衝材だ。
いくつかの条件を合わせ、判断するようなことも可能となる。
しかし、緩衝材が効かない、生々しい世界に身を置くしかなければ、パニックになる。
自閉の人では 割り切り が難しい。
自閉の人では、それ そのものを そのままに体験している。
感情や感覚は、生生しくそのままの形で体験され、何かに代理させて衝撃を弱くする、という作戦が取れない。
そのもの、だからだ。
強烈な感覚として、そのまま入ってくる。
まるで、生まれて間もない赤ちゃんのように。
混乱する。
世界をそのままで、普通の人が感じるような 安全・安心な場所として感じることが難しくなる。
そのため、処理が容易な、比較的予測がつくものの方が安心だ。
ボールは落ちる。必ず、落ちる。
物は、同じ条件では同じ動きをする。
まず、快適、という状態を経験しにくいこと
したがって、それを創ってくれるのが、どうやら 人だと、思いにくいこと。
そこに働きかけていく。
本人にとって 快適な状態に 人が参与するする体験をしてもらう。
人はランダムに動く。
それも不得意なので、人も 全体 としてではなく 機能 として扱いがちなのだ。
0か1かで物事が起きる状態が続きやすく、
確率で起きる 不安 と言う状態に馴染みにくい。
しかし、Aくんは、お母さんと離れることに 不安 を感じるようになった。
特定の人を 特定の人 と認めるようになった。
恐怖が不安 になれば、自分で対処することを、覚えられる可能性が出て来る。
自閉 ことはじめ
人はいいものだと、人の存在に気付いてもらうこと
ここから、始まる。
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