発達障害の謎
こんにちわ。
何かあれば「発達障害」と言われる昨今。”発達障害”が大人の都合で使われていないか。今日は「自閉」にスポットを当てて書いていきたいと思います。発達障害であれ何であれ、大切なのは「じゃあそういう自分でどう生きていくのか」ということです。そこに主眼を置きながら、自分を展開していける大人に育てることが、教育です。
私が言語療法士(当時はまだ言語聴覚士という国家資格はありませんでした)になりたての、約30年前。「この子、自閉なんじゃないでしょうか」などと言おうものなら、草分けの先生方にめちゃめちゃ怒られました 汗;;^^。「自閉」というのは、そのくらいもともとは厳密な概念です。自分が「関わりにくい」ほどの意味合いでその言葉を使おうものなら、大変に厳しくその理由を求められました。
結論から言うと「自閉」や「ADHD」という言葉は、現代では、子どものせいにするために使われていることが多く見受けられます。「この子は発達障害だから」「しょうがない」それは、地続きには「私のせいではない」という大人の側の安心や、強い言葉で言うと責任の回避に用いられることがあります。
確かに、育てにくい子というのは存在します。興味関心があっちへこっちへ。うろうろしまくりで全く自分に時間をくれない。他の親に褒められるどころか、いつも謝ってばかり。
クラスを崩壊させ、口答えし、こちらの怒りの感情に容赦なく火をつける児童。理屈や道理が通じない。ましてや親に理解がない、話が通じないとなればなおさらです。(いつか、ディマンディングな親御さんについての記事も書きたいです)(逆に言えば、わけわからない担任に当たってしまった時、親に出来ることについても書きたいです。)
こいつのせいだ! 言いたくなる気持ちは重々わかります。
その上で、養育する教育する。そのためのお手伝いを出来たらと切望しております。なぜなら、彼らは特別な才能や役割を持っている場合があるからです。それを一緒に引き出す仕事をすることは、つまり親御さんや先生の側のお役目や役割を拡げることにつながることがあり、大人の側の十全さも引き出すことがあるからです。また、家族の幸せにつながっていくための、重要なきっかけを与えてくれていることがあります。重要なやつなので 笑 そんなに簡単な問題ではありません。正直、解ける人と解けない人がいるとは思っています。しかし、このページを見てくださっている時点で、解ける親御さんではと思います。なぜなら、自分から情報にリーチしようとされているからです。
受け身では、この問題は解決しません。けれど、子どもを理解したい・助けたい。その気持ちがあるご家庭や教室では変化が見られていくことがほとんどです。
自閉症の概念の変遷
自閉、とうのはもともと 統合失調症の生得的な発症型として考えられた概念でした。統合失調症は、大人になってからなります(思春期以降が多いです)。つまり一旦統合されていた自我が、ばらばらになって発症する病気、として考えられます。
しかし、途中でばらばらになるんじゃなくてもともと、生まれつき統合の難しさをもって生まれている一群があるのでは?と想定される人たちが報告されるようになりました。それが自閉症です。スイスの精神医学者、オイゲン・ブロイラーやアメリカのレオ・カナーの流れです。
自我の統合が難しい、それはつまり、その場その場での状況や感覚に応じて対応が必要になる、ということです。すべての情報を集め統合したのちに結果を出すのでなく、一つの情報に対して一つの反応を求めがちです。普通こうなればこうじゃん? が、通じないのです。この状況ならこうしない? という時、私たちは複数の情報や文脈を統合して考えています。しかし、これが暗黙の了解として通じません。デジタルのように、1.2.1.2.と、一つづつ対応していきます。認知の仕方(感覚)も違いますし、おそらくそれに応じて処理の仕方も違います。
元々は、このように障害の機序や原因を想定して考えられたのが自閉という概念でした。が、後に理由とは関係なく、起きている症状から自閉を規定するという流れが出てきます。用語の使い方が変わってくるのです。イギリスのローナ・ウィングの流れです。社会性・コミュニケーション・想像力の3つに症状がある子どもを、自閉症と呼ぶことが提唱されました。
この流れはDSMとういアメリカの診断基準が策定された後、より広範に応用されるようになっていきます。①○○という症状 ②△△という症状 ③▽▽という症状・・・これらが該当する場合、自閉症と言いましょう、そしてDSM-5では自閉スペクトラム症という、より広い症状面の状態を含むようになっていったのです。
これにより 当てはまれば自閉症 という考えが全てであると捉えられるようになり、理由や原因は問われなくなりました。何故やではどうすれば? に人があまり頓着しなくなっていきました。セラピーの基本は、何故です。何故それが起きているのかを仮説しなければ、対応策は出てきません。症状に対処するだけでは対処療法になってしまい、下手をすると問題のすり替えや小手先の対応になっていき、全人的な発達を望むのとは、離れる方向に向かってしまうのです。
原因は何か
では自閉症や自閉スペクトラム症の原因は何か。これはわかっていません。しかし、謎を解いていく手掛かりがあります。それは自閉症と見分けがつかないと言われる状態、愛着障害の一種、反応性アタッチメント障害の存在です(ADHDが愛着障害と見分けがつかない場合は、脱抑制型対人交流愛着障害と類似してきます。これはADHDの記事に書きます。)
生まれた時から不適切な環境に置かれ、養育者との心を育てるための交流が著しく偏った場合、特定の人を子どもは安心をくれる愛着対象とすることが出来ず、こころを閉ざしてしまったり(自閉型)誰かれなくついていくようになったり(ADHD型)します。これはこころの”まともな反応”と言ってもよいかもしれません。おそらく多くの人が同じような境遇に置かれたら、同じような結果になるでしょう。しかし、もともと持っている素因が著しく強い場合、同じような結果は出ないという可能性もあります。
これは、重要なことを言っている可能性があり、もしかすると生まれつき、人との交流や感性・感覚に独特なものを持っていた人が、それを扱いづらいと感じる親と出会った場合、その要素が強化されてさらに対人関係の円滑さを損ねていくのでは、ということです。円滑な体験があれば、症状は強化されない可能性があります。和らぐかもしれないのです。
養育・教育のポイントは何か
どの子どもも、安心・安全を得たいと感じています。みんな、自分のままで認められたいし、困ったことにはなりたくありません。安心・安全の感覚があるからこそ、次の発達が起きてきます。それでは、自閉と言われる子どもを育て教育するとき、何がポイントになるでしょうか。
はい。安心・安全 ということを体験させてやることになります。生得的な理論を提唱したブロイラー・カナーの仮説を加味すれば、感覚や感じ方がそもそも他の人と違う可能性があります。その感覚や感じ方で感じた時に、その子どもが安心と感じるような環境を、配慮する必要があるのです。
そうなったらこうでしょ??ではない可能性を、大人の側が想像力を膨らませるということです。発達障害と言われる子どもは、こちらの側がクリエイティブであるということを求めてきます。私たちに神経症から脱するきっかけを与えてくれる、という言い方もできるかもしれません。
その子が 面白い、と思うような働きかけをするのです。こちらが面白いのではなく、相手の子どもが興味深い、続けてやりたい、人とかかわるのは良いものだ、と思ってもらえるような対応をまずはこちらの側がするのです。遊びの達人になるのです😊
発達の原則に IN が先 OUTは後 というのがあります。
まず人に合わせてもらう体験をしないと(自分のぴったりフィットに。特に感覚が他の子どもより鋭い可能性があるので シンデレラフィットを求められる場合があります)、人に合わせるということはでいるようにはならないのです。
小学校に上がったのち、先生との間でこのバトルが見られることがしばしばあります。🙂↕️しかしどうしても、体験したことしか人は表出することができないのです。
子どもがどこで安心・安全を感じるのか。そこを知り体験させた後に、こちらにも合わせるということ、躾を行ってく。どんな子どもでもこの順序が変わることはありあせん。逆に順序を変えることに適応してしまった子どもは、後にメンタルな問題を現すことがあります。
子どもが楽しいと思うこと、そして一緒に出来ることを工夫していく。そのレパートリーと遊びごごろの楽しさを、ご提供できればと思っています。発達障害と言われる子どもは、こちらの側がクリエイティブになることを教えてくれます。現状の発達段階 × 今必要な遊び心 です。
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