面白い本を読みました。
『ぼくは、ディスレクシア』 リサ・ワインスタイン 吉田利子訳 河出書房新社
この著者は、臨床心理士の博士です。米国で著名な方で、そのお母さんがディスレキシアの息子を持ったら? と言う話です。お父さんも著名な児童精神のお医者さんのようです。
ほんと、不思議なことが起こりますよね~ 極めてくると。それを自分でも体験する事になるという。がんの看取りの訪問看護のお医者さんが、ご自身ががんになったり、アルツハイマーの著名なお医者さんがご自身がアルツハイマーになったり。体験と理論の乖離を、これでもか!と見せつけて来る。
著者の母は、ディスレキシアの機序については、もちろん専門家でした。
もちろん、毎日クリニックで彼女が扱っていたことでしたし、他の子どものために毎日のように意見書を書き、適切な教育が受けられるように戦ってきたことでした。
しかし、自分の子どもがディスレキシアというのは・・・
全く違う次元の話でした。
なんと言いますか・・・専門家と言うのは、どうしてそれがそうなっているのか? 様々な検査をして、それを明らかにしていくことに 知的興奮 を覚えるんですよね。 もともと頭が良くて、知性化 という防衛機制を使って世の中を耐え忍んできた(渡ってきた)人が多いので、その資質を生かして社会貢献しているわけで、子どもを理解するというヒューマニスティックな事柄に、知的な探索をがちで入れていくというのは、まさに、自分は生かされている!生きてて良かった!という体験なのです。
しかし、自分の子どもとなると・・・
知的に切り離せない面が出てくるわけです。自分の育ちのひっかかりやトラウマを、容赦なく刺激してきますし、「何がわからないのかわからない」ことを、本当に「わからない」と言ってきたりします。けど、その中には本人も無意識に「わからないと言っておけば、苦手なことをやらされずに済む」と言った、回避するために わからない 状態にしておく、というのも入っていたりで、説明しようが何をしようが、いらいらする以外結果がない、といったことが起こります。
これには、子どもの側の「自分のイライラを、自分で処理せず相手に経験させて処理しようとする」ゴミ箱理論(と私が呼んでいるもの)も、働いていたりします。
親子関係では、一体感があるため、この距離感のどろどろがとても起きやすいです。
そして、この本で一番大事な観点だなあ、と思ったのは、子どもは幼いころから 音韻の処理に難しさをもったまま発達しているということです。絶えずそれに影響されながら、世の中と渡り合い、こころ を創っているということです。
https://ameblo.jp/kizukinotennshi/entry-12872472283.html
そしてこの こころを創る、を理論化しようとするとまたおかしなことになるようにも感じます。こころって、つなぎ目なんだと思うんですよね。あちらとこちらの
私も 知的興奮 からお母さんたちと話してしまうことがあるのですが、何と言うんだろう🤔 もっと人として統合されなきゃならないな、と思います。確かに、科学的・学術的な視点は必要なんです。それを持たないカウンセラーやセラピストとも多く会ってきましたが、正直、臨床的な障害には太刀打ちできません。症状は悪くなるだけです。現実 は見ないとダメなんです。けれど こころ ってそれだけで動いていない。生きている ということや人を生かしている力 みたいなものと、何か 継ぎ目 というか 接点 のようなものを、知覚・意識する必要があるります。教育を受けている人では、逆にここが弱かったりします。
こころに、良い影響を与える言語療法を、提供していきたいと思います。
当サイトのテキスト・画像の無断転載・複製を固く禁じます。