こんにちわ 言語聴覚士・臨床心理士 清水宏美です。
今日は、肢体不自由の子どものこころの発達について書きます。
定型の発達では、首が座り、寝返りをし、お座りをし、前後の重心の移動を覚えハイハイをし、立ち上がり、歩く とう身体の発達が起こります。しかし、身体にハンディを持って生まれたお子さんでは、この どこで 難しさが起きているかで、こころや性格の特徴が変わってくると言われています。
また、これはこれまであまり言われていない視点なのですが、移動の自由が獲得できないことで、母ー子の関係、つまり安心の形成、そして自我の形成に独特の問題が出てきます。どんな時期に、何を配慮することで、こころは、健全に育つことを促せるのか。書いていきたいと思います。
通常のこころの発達と現代の問題点についてお知りになりたい方は、【定型発達との違い】の項目をお読みください。
ゆなちゃんの言葉
ゆなちゃん(仮の名前です)は、脳性麻痺と言われるお子さんでした。車いすに乗っていました。高校2-3生の時期に、カウンセリングを行いました。
主訴は「パニックになってしまう」というものでした。気持ちのコントロールが難しくなりすぎると、大声を出したり暴れたり、突っ伏したまま外界と(他の人と)コミュニケーションが取れなくなってしまうのです。
お母さんは考えられる原因に対し、出来る限りの工夫をされていました。学校では先生は、主に「気持ちをそらす」ような対応をされてました。しかし、ゆなちゃんは「自分のパニックについて自分で考えたい」という、真っ向勝負を望んでいました。💪
ゆなちゃんが言った言葉で、とても印象に残った言葉があります。
「私は身体は不自由だけど、頭は不自由じゃない」
これは、私は考えることができる ということを宣言しています。
肢体不自由に生まれたお子さんでは、体験する ことができないことが沢山あります。
滑り台を滑る、ということひとつとっても、語られたことで 頭の中で 体験するしかありません。あるいは、誰かに手伝ってもらったり特殊な形の滑り台であれば、類似の体験はすることは出来ると思います。しかし、今、滑り台に乗りたい! と思った時に、自分で叶えることは出来ないのです。
頭の中で体験する事が多くなります。ゆうちゃんは、頭ではいつも創造をしていたのではないでしょうか。
そして、自分の力で、不自由ではない頭を使って、自分のことを考えたいと言っていました。
定型発達との違い 常に誰かの助けが必要だということ
定型の発達では、1歳になり歩行の自由を獲得すると、世の中に 恋したかのように 様々な探索を始めます。行ってみて、やってみるのです。 自分の成し遂げることに、意気揚々という感覚を味わいます。自分が全能かのように感じ、母親から離れていきます。お母さんは、ああ少し手が離れた という感覚を持ちます。
しかし、1歳後半から2歳くらいになると、子どもが再び母の手に戻ってきます。人見知りをしたり後追いをしたり、母の手を煩わせるようになるのです。
再接近期(M.S.Mahler)と言われる時期です。意気揚々と母の手から外界に出ていったものの、子どもは案外、外の世界は 大変で、障害が多い、自分の思い通りにはならない ということを、フラストレーションと共に体験するようになります。
不安になった幼児は、母のところに駆け戻ってきます。そしてそこで安心の感覚を得て、再び外の世界を探索に行く、ということを繰り返すようになるのです。
しかし、この時点で、子どもは乳児期に比べより複雑な要求を持つようになっており、また認知も感情も、以前よりかなり複雑になっています。ですので、どうしたいのか、が母にもわかりくくなっています。別の人間になりはじめているのです。しかし、子どもはまだ、母はすべてを分かってくれると思っています。
欲求不満が大きなものになり、かんしゃくを起こす、ということをするようになります。怒りの爆発です。母はびっくりします。手を離れたと感じた後だけに、自分のところに戻ってきて、しかもわけわからないことをしつこくしつこくされるので、母もいらいらします。手を離れたと思ったのに。
しかし、子どもは、自分の安心を母に回復させてもらおうと思っている(そうするしかない)ので、不安が収まるまで そうじゃない! ああじゃない! こうじゃない!とやるのです。
この強烈な、情動を伴う最接近に、母はとまどいます。子どもを抱え込んで、自分の手でミルクをあげおむつを替え、抱っこして幸せにしてあげればよかったものが、母にもコントロールの及ばないことを、自分の気に入るように、何とかしろと言うのです。
お母さんにやってもらうんじゃなくて、自分でやりたい!お母さんの庇護から抜け出したい!けどお母さんにやってほしい。すごい矛盾です💦
子どもの 幸せ と母の 幸せ は別のものになりはじめます。二人の人間 に分かれていくことが、本当の意味で始まっているのです。
母にとっては、乳児期とは違った、精神的にはそれ以上に、タフな仕事が始まります。
子どもがやりたいことをやらせ、試させ、くじけて帰ってきたときには安心を回復させてあげる、という役割がまわって来ます。
私がやってあげた方が早いじゃん! 何度そう言いたくなるかわかりません。
かんしゃくが起きるのを恐れて、やらせないようにしたい、と思うかもしれません。危険は避けよう。賢明な判断です。(笑)しかし、望みは何でもかなえてあげるようにしよう。これは危険な判断です。
Good EnoughなMother という考え方があります(D.W.Winnicott)。
十分にはやってやれない。不満を起こさせないようにすることは,、出来ない。時には子どもを失望させる、全能ではないお母さん。
しかしこれによって、子どもは世界を知り、世界と折り合うことを学んでいきます。
抱きかかえていたところから、母は 安全のロープ を子どもにくくりつけ、それを子どもの様子を見ながら、伸ばしたり縮めたり、そして時にはロープを外してみたり。 子どもの 要求 やってみたいこと に合わせて、調節をしなければならないのです。今なら、この子はこのくらいは大丈夫。勘所に合わせながら、自分でやれるように、冒険をさせてやる必要があります。
べったりかわいがるのは上手、しかしこの
相手の様子を見て 相手のニードに合わせて 自分をコントロールする。
これが下手な(平たい言葉でごめんなさい)お母さんが増えています。これは、学齢期になった時に、就学へのレディネスが出来ていない子どもが、学校に大量に入ってくる問題として、今顕在化しています。
では、肢体不自由の子どもの場合
さてでは、ここまで書いてきたことを、身体にハンディのあるお子さんに当てはめて考えると、どうなるでしょうか。どのようにして、母親から独立していけばよいのでしょうか。
まず、歩行の自由が獲得できません。身体を使うことの爽快さ、自分が自分であることの意気揚々をどう感じてもらうか。やはり大人の側の助けが必要となってしまいます。 遊園地にあるような、自分で走行させることの出来る乗り物 とか、
例えばこんな感じ→→
もう少し大きくなると電動車いす とか、自走させることをとても喜びます。
自分の 身体 というものへの 信頼感。もともと病気が合併したり不調が続いたりすると、身体感覚自体に不快な体験が多くなってしまいます。
身体の調子が整っていれば、まず100点! そこがまずこころを育てる器になるってきます。
そして、自分のやってみたいことをやる! というトライ&エラーが、自分の意志だけでなかなか出来ないので、欲求❤️🔥 自体が育ちにくくなります。
訓練 とか 練習 とかそういう意味ではなく、遊び を体験させることはとても大切だと思います。遊びとは、そもそも何かの 目的 の為に行うものではありません。
本人の満足感。これを体験することがとても重要になってきます。
一人でトライ&エラーをすることが出来ない。これは人との分離を難しくします。
自分の好きなタイミングで遊ぶことは、難しいのです。
常に人が用意してくれた、人に時間があるタイミングでしか欲求がかなわない状況で育っている、ということに思いを馳せすぎても、馳せすぎることはないでしょう。しかし、叶わないときには叶わない、ということを学ぶ必要もあるのです。
難しいことのように思います。しかし、こころを育てる上で最もベースとなる原則は、とてもシンプルに、ほとんど同じではと思います。
相手の様子を見て 相手のニードにあわせて 自分をコントロールする。
先に述べたこの普通の子育てでもお母さんたちが難しくなっているポイントを、意識することだと思います。
ともすると、いつまでも抱え込んでべったりお世話をする、可愛がるになりがちです。
要求自体が育ちにくい、そしてこちらの要求と子どもの要求の分離がしにくい。なぜならこちらが用意した機会・時間でしか遊べないから、ということを肝に銘じて、別の人間 として意思を育てる態度が、幼少期から必要になるのではと思います。
一緒に遊ぶ。あっちも楽しいしこっちも楽しい。その当たり前の体験が、一人で遊ぶことの難しい肢体不自由の子どもに、世界に恋する 体験をさせるのではと思います。一体と分離が、常に入り混じっているのです。
その上で、Good enough なmothreでいること。自分の限界は、設定して良いと思います。後は、子どもが適応します。これも、普通の子育てと一緒です。
どんな腹が立つ時も、必要なことはしてあげましょう。相手を怒らせたら介助してもらえないかも。その恐れを子どもに感じさせないためには、お母さんの怒りのコントロールがとても大事になってきます。手助けを得られるところからは、何でも得てください。
子どもが喋れる年齢になったら、何でもお話させましょう。
身体が自由にならない分、言葉で体験していくことが大切です。自分はどう感じているのか。本音を話させましょう。
おりこうさんでいることや、可愛い子でいることを、強要させないように、本当の言葉を語れるようにしてあげることが、定型のお子さんよりますます重要なのではと思います。
私は、ハンディのあるお子さんたちの、パンチのきた言葉が、とても好きです。綺麗ごとでない、自己一致した言葉は、人を動かす力があります。
思春期以降 ここが大切
そして自分の意思を尊重されながら、少なくとも意識されながら育った子ども。
親や先生、介助者が 自分の意志 と相手の意志 を分けることを考えながら育てた子ども。
メンタライゼーションと共感の違いを、時期に応じて必要に応じて、対応しわけたた子ども。(メンタライズと共感 につては、https://dibesapo.com/mentalization/ こちらに書いています)。
語ることを、育てられた子ども。
肢体不自由のある子どもにとって、特に大切になるのは 思春期以降です。
なぜなら、ここで言葉による、自他の分離 を確立できる可能性があるからです。
定型の発達でも、第二の離乳、と言われる 大切な=大荒れな 時期です。
定型の子では 一人で怒って ぷいっと 外に出るとか学校から飛び出しちゃう、とか、そいうことが出来ます。しかし、肢体不自由の子では、悪さが出来ないのが問題です;;。嫌でも、怒っても、その場から離れることが出来ないのです。いつも誰かがそばにいます。
一人にさせてあげる時間を保証することは、身体の不自由と言う特性上、とても大切になって来ます。
幼いころはどうしても介助が必要です。どうしても母から離れることはできません。母子一体でないと、越えられないことも多いでしょう。
しかし、思春期以降、幼少期からどうしても難しかった、取りこぼした部分を、言葉や行動で現すようにあります。
ゆなちゃんのかんしゃく も、それだったと思います。自分の思いと、世界がずれている。そのずれを、小さいうちは可愛い可愛いでカバーされ、また自分も適応する方が有利だったので かわい子 を演じて来ることも学びましたが、母や大人の機嫌をそこねず助けてもらうことも学んできましたが、
自分を確立したい という欲求が出てくるのです。違う!と叫びたくなっているのです。😄
そこをいかに潰さず、育てることが出来るか。
定型の中学生であれば、ぷいっと家を出てしまいます。学校からいなくなってしまいます。友達とつるんでどこかに行ってしまいます。
それを、言葉でやる必要が出てくるのです。
可愛くない子になるかもしれませんし、面倒見てやってるのに何なの?と思うかもしれませんが、この時期は、本当にカウンセリングなど、親の手から離れるプロセスを取ることが必要だと実感します。日本では(世界でもなのかな?)ここが、ほとんどできていないのではないでしょうか。
どんな すっとんきょう に見えることも、こちらが受け入れる度量が必要な場合があります。
型にはまらないことこそ、違う形で生まれてきた・生きている人の、お役目なのではと思います。
そして同時に、この世でのやり方 を教育という形で示しておく必要があると思います。
こころは育ちます。こころがどう形作られていくか、の原則は同じです。
その原則を踏まえ、この世での実現のしかたを伝えたうえで、自分の役割を果たす人になってもらいたいと思います。
それには、大人の側が、ちゃんと伝える、こころの発達段階を踏まえた上での対話の相手になる、責任を放棄しちゃだめだと思います。
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